バリで感じた「物と霊性」

バリ旅行の際、バリが登場する小説を読んで空気感を味わおうと思って、中島らも『水に似た感情』を読んだ。そのなかで、筆者はこういうことを書いている。主人公モンクと音楽家のソトさんが、対談のネタをあみだくじで決めることになるシーンだ。

「今度はソトがくじを引いた。
お題は『物質と霊性について』だった。
二人とも困り果てて、三分以上も黙り込んでしまった。」

なんとなく、黙り込んでしまったほうがクールというか、こういうことをガシガシ言語化するのって、野暮な気もする。中島らもさんだって、書こうと思ったら書けるはずだけれど、書かなかった。でも私は書きたい。
バリで「物質と霊性」について、よく考えた。

バリの人は1日3回、お供え物をする。「バリ」という音葉は、サンスクリット語で「供物」を意味するらしい。

神棚や大樹などに供えるなら、私にも感覚がわかる。けれど、バリ人は自動車やガス台や湯沸かし器にまでお供えする。加えて土地の精霊にもお供えする。良い霊だけでなく悪い霊にも、「悪さしないでよ」とお供えをする。当然神様にもお供えをする。そうなると、自分の周りには、お供えする対象だらけになってくる。

以前に自分のブログにも書いたけれど、私は「手入れの良さと物を大切にする姿勢は、物の客観的な価値をも上げる」と思っている。例えば、100円均一で同じお皿を買ったAさんとBさんという人がいたとする。100円だからとおろそかに使っているAさんと、すごく良いものを見つけたと大事にしているBさんのお皿を、Cさんが見たとしたら、たぶんCさんはBさんのお皿の方が価値が高いと感じるはずだ、と思っている。

ブログはこれ:「安いものを安易に買うことの、美意識に対する悪影響」

そういう発想でバリの人たちの習慣を見てみると……
バリはお供えする対象に溢れている。バリの人たちは、周りに霊がいると見なして行動している。そうすると、まったく関係ない私たちにも、そういう意識がなんとなく伝わってくる。物が霊性を帯びているように感じられて来るのだ。

意識というものは、ものすごい。どういうメカニズムかはわからないけれど、確実に人に伝わる。「あ、この人、私のこと嫌いだな」というのは、たまには勘違いすることもあるけれど、だいたい伝わって来るはずだ。

しかも、意識は対面でなくても伝わるものなのだと思う。
以前に私は子供向けの通信教育の教材を制作する会社で働いていたのだが、その会社では評価がよかった教材は複数年に渡って使い続けていた。3年生の作文指導用教材がうまくできていたら、翌年の3年生、翌々年の3年生にも同じものを送るのだ。
受け取る3年生は毎年変わる。だから、新しいものを受け取っているはずだ。なのに、少しずつ評価が落ちてくる。

もちろん、その教材を告知する私たちの側が告知しづらくなるとか、きょうだいが同じものを受け取っていたとか、そういう事情もあると思う。でも、それをひっくるめて、何か、送り手の意識が、受け取る子どもに伝わってい流ような気がしてならない。

霊性を帯びた物に囲まれているのって、すごく心強いんじゃないかな。大好きだったおばあちゃんの手編みのセーターを着ている時に事故に遭った場合、なんとなく生き残れそうな気がするのと、似た感覚で。

加えて、そうやってお供えをする対象に囲まれている中で、「スズメはめんどくさいから追っ払おう」とか、「これほしい。ちょっと盗んじゃえ」とかって、思いづらいのではないだろうか。

少なくとも、滞在したホテルには虫も魚も鳥もいっぱいいて命が咲き誇っているような感じがしたし、その動物たちはのびのびしているような気がしたし、暗い場所でも怖い感じが全くしなかったし、従業員の人たちからいつも気持ちの良い雰囲気を感じた。バリ滞在1日目からそんな雰囲気を感じて、自分がどんどん元気になっていくのがわかった。

そして日本に帰ってきて、清潔な町並みを眺めてなんとなく思った。日本はきれいだけれど、なんだか建物も物も寝ているような気がするなと。アニミズムをもう少し大事に考えた方が、うまくいく気がしている。

【おすすめ記事】
物体がまとう「何か」の価値
安いものを安易に買うことの、美意識に対する悪影響
物が多くて片付かないなら、狭い家へ引っ越そう!
フェリックス軍曹のお片づけブートキャンプ
新しいものを買わないのはケチではなく……
物を捨てることは、究極の「物を大切にすること」

About The Author

プロフィールはこちら