「差別する人」はどこにいる?

曽野綾子さんのアパルトヘイト肯定と受け取れる署名記事が大きな問題になっている。私もこの件を最初に知ったときには、「ひどいことを書いたものだ」と思ったのだが、そういえば、と思いだしたことがある。旅先でのできごとだ。

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◼︎静かな午後の海水浴の時間だった

昨年の10月、夫婦で宮古島に行った。10月だけれど、まだとても暑かった。その夏に夫は大きめの手術をして、心配性の私は大げさに捉えて夫が死ぬかもと思っていた。だから、手術後ようやく元気になった夫と、真っ青な空と海、力強い太陽と白くさらさらの砂浜の地にいられるのがとてもとてもうれしかった。

せっかくの宮古島だ。私たちは張り切ってビーチに泳ぎにいった。泳いでいる人は少なくて、私たちの他には1組しかいなかった。ビーチは広々としていたので、いくつもある岩の一つを適当に選んで荷物を置き、泳いだり砂浜に上がったりを繰り返した。そのうちにタオルが濡れてしまったので、砂がつかないように岩の上に干した。波の音だけ聞こえるような、のどかな午後だった。

◼︎タオルに砂をかけられた

そこに、5歳くらいの女の子を連れた夫婦とおばあちゃんが大きな声で話しながらやってきた。そして何を思ったか、私たちが荷物を置いた岩に、あえて私たちの荷物を取り囲むように荷物を置いた。国内だしビーチからも見えるから、と私たちは荷物に貴重品も入れていたから、困惑した。それだけなら大したことはないのだけれど、その5歳くらいの女の子がいきなり干してある私たちのタオルに向かって、犬が砂をかけるときのような姿勢で猛烈に、手足を使って砂をかけ始めたのだ。

びっくりした。タオルを救いに、私は急いで海から上がり、水着のまま慌てて走って行った。当然ながら、お母さんらしき人が謝ってくるものだと思っていた。でも違った。ちょっと上品にも見えるそのお母さんは、私とその子を見て笑っていた。女の子が砂をかけた理由は、近づいてもさっぱりわからなかった。そしてその時、その人たちが韓国語を喋っているのに気づいた。

◼︎私は差別は嫌いだ

私は小6のときに当時のソ連やヨーロッパ、アメリカに行ったことがある。優しい人にたくさんあったが、差別というものを肌で感じる旅でもあった。変えられないものを理由に「違う」と見なされ、「おまえを歓迎しないぞ」という体から発せられる拒絶の雰囲気は嫌なものだ。だから差別は嫌いだ。

一方、私は韓国に対して比較的良いイメージを持っている。今まで知り合った韓国人は向上心があって勉強熱心で、熱く優しい人たちだった。韓国に行った時に、現地でいろいろな人が向こうから話しかけてきてくれて、やさしくしてもらった経験もある。ごはんもおいしいし、文化的にもおもしろい。でも、韓国に行った時に浮浪者風の人から足元に唾を吐かれたり、マッサージ店でぼったくられたりしたこともある。日本と同じように良い人も悪い人もいる。日本と似ているからこその近親憎悪的な感情が渦巻きやすい国ではあるけれど、アメリカやインド、コートジボワール、ブラジル、タイ等々、いろんな国と同じように、韓国にはいいところもあれば悪いところもある。

◼︎韓国に良いイメージを持っている私の、勢い余った発言

だけど今、「嫌韓」という言葉が飛び交う中で、「差別」に反対する人はその対抗として韓国を擁護しがちだし、私もどちらかといえばそういう立場をとってきた。

だからだろう。そして静かな海水浴の時間を壊されたという気持ちもあったと思う。私が、その人たちを韓国人だと認識した瞬間に感じたのは「裏切られた」に近い感情だった。「こういうことをすると、『嫌韓』の人に付け入れられるじゃない」みたいな気持ち。それで、思わず「韓国人はこんな失礼なことをするとは思わなかった」と、彼らに対して言ってしまった。加えて、後から私の援軍のためにやって来た夫(外国人)が私の言葉を聞いて、「日本人は人にこういう風に迷惑をかけない」と付け加えてしまった。それを聞いた一家は何も言わず、荷物をまとめてその場を立ち去った。

◼︎後から振り返ると

私の言動は決して差別的な意図から出たものではない。しかし、あとから振り返ると、私たちの行動は、その韓国人から見れば差別的に映ったのかも、とハタと思った。

調べてみると、日本のお母さんが子育てで「人に迷惑をかけないように」と注意を払うのに対し、韓国のお母さんは「この子に競争社会の中で生き抜く力を身につけなければ。自主性を育てなければ」と頑張る傾向があるらしい。それから、電車の中で座っている人が、目の前の見知らぬ他人の荷物を持ってあげるという習慣も残っているらしい。こういう文化的背景があることを考えると、韓国人の一家にとっては、「(韓国なら)誰からも文句を言われることなど考えられない状況で、急に日本人が飛んできて、『韓国人は』『日本人は』と文句を言われた」と感じたのかもしれないのだ。

また、私が一瞬そうなりかけたように、もともと韓国に対して良いイメージを持っていた日本人が、こういったトラブルによって韓国に悪い印象を持つケースも考えられる。

◼︎文化の違いからくる衝突は、何が原因なのかお互いに分からないという難しさがある

今回の件と逆のパターンもありえる。たとえば、めいろまさんも以前にツイートしていたけれど、日本人の交通マナーや公共の場での見知らぬ人へのマナーは「けっこう悪い」、らしい。


外国人の夫も夫の周りの外国人もそれに関しては日本人に対してイライラしている。「前を見てない」「周りを見ていない」と、何度聞かされたことか。

でも、私にはその感覚がよくわからない。前も周りもちゃんと見ていると思う。特に人にもぶつからないし。でも、夫にそう言うと「さやかも見てないよ」と言われる。親しい人から言われてもなかなかわからないのだから、そういう声があることを知らずに海外で生活したら、私も確実に周りの人に不快感を与えるのだろう。そして、ある日急に誰かに怒られてこう言われるかもしれない。「日本人がこんなにマナーが悪いと思わなかった!」「俺たちの国の人間はこんなにマナーは悪くない」って。

◼︎差別がダメだ、なんてみんなわかっているけれど……

差別が嫌だと思っている私も、相手に差別だと思われるような発言をしてしまう可能性がある。このことは、「差別」というものの難しさを表している。ほとんどの人が、頭では差別がダメだとわかっている。冒頭の荻上チキさんによる曽野綾子さんのインタビューでも、曽野綾子さんは「差別が良いなんて書いていない。区別だ」と主張している。

ただ、小さな不快感が重なって、それに対していちいち相手の文化的背景を調べて慮ってやる必要が生じたりすると、非常にめんどくさく大変だ。普通ではないと自分が思うことをされたから怒っても、罪悪感が残る。そういうことが積み重なると、めんどくさくなって、「もう差別主義者だと思われてもいい」と思ったり、区別が必要だと言いたくなったりする。

◼︎「差別」を「自分もしてしまうこともあるもの」として捉えてみる

「差別反対」と言って、差別的な発言をした人を攻撃するのは簡単だ。私も曽野綾子さんの記事を見て、ムキーっと思った。あの記事は根拠も乏しく事実誤認もあるようだし、言葉の使い方も、根底にある考え方もずれていると感じた。「それは差別だ」と指摘することは大切だったと思う。でも、次第に曽野綾子さんを「(私とは違う)変な人」で片付けようとする動きが見られるようになって、「そんなに簡単なものでもない」とも思うようになった。彼女と私はまったく別世界にいるわけではなく、どこかでつながっているかもしれないのだ。

「あなた:差別する人=変な人、私:差別しない人=普通の人」という風にラベルを貼って、攻撃しているだけでいいのだろうか。自分とは別の世界のものとして「差別」というものをとらえていたら、自分がやっている「差別」に気づかない恐れすらある。「普通の人」が、気をつけていてもしてしまうもの、あるいは、されてしまうもの、それでもどうすべきかをその場面によって、時にはお互いに考えるべきものとして「差別」を捉える感覚が、私自身にとっても、多くの人にとっても必要なのではないか。

そんなことを思いました。おしまい。

▼みんなで仲良くご飯を食べるのだ!

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