「型」を追求し続ける日本人、「人間はみーんな変人」が前提のイギリス人

子どものころ、イギリスの児童文学が好きだった。「メアリー・ポピンズ」や「床下の小人たち」、「不思議の国のアリス」、「砂の妖精」、「トムは真夜中の庭で」……「床下の小人たち」は、ジブリの「借りぐらしのアリエッティ」の原作だ。他の作品も海外で映画やアニメになっている。

私はジブリが大好きだけれど、「借りぐらしのアリエッティ」はちょっと残念だった。なぜか。登場人物が優しすぎるのだ。あまりに、角がなさ過ぎるのだ。あれではおもしろさが半減だ。

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■「人間はみーんな変人」が前提のイギリス人

前述したイギリスの児童文学の登場人物は、みんなそれぞれに変なところがある。偏屈や短気をまったく隠さない。「借りぐらしのアリエッティ」に出てくるお母さんはとても優しい、物わかりの良い人だった。でも、原作の「床下の小人たち」のアリエッティのお母さんは、短気でヒステリー。アリエッティが何かすると、すぐにプンスカ怒っちゃう。アリエッティもジブリ映画よりもはるかにへんてこで意固地な子だった。

「メアリー・ポピンズ」も、原作ではむちゃくちゃ素っ気なくて短気。映画はジュリー・アンドリュースがメアリー・ポピンズを演じていて、なんだかパンチが効いていなかった。メアリー・ポピンズの素っ気なさ、短気さにドキドキしながら、うまくスルーして不思議な出来事に参加していく子供たち(しかも子供たちも共感できないほどへんてこ)なのがおもしろかったのに。

へんてこな人間が、イギリスの児童文学をさらにおもしろいものにしている。それに気づいたのは、大学院で児童文学を学んでいたときだった。「かいじゅうたちのいるところ」を翻訳した神宮輝夫先生が「イギリス人の前提は『人間はみんな変わっているものだ』なんだよな」とぼそっとおっしゃったのだ。

■「型」を追求し続ける日本人

一方の日本人。先日、フランス人の友達から、すごい話を聞いた。東京に、キャッツアイみたいな洋服(ていうより肌みたいなもの? ほぼ裸みたいなもの)を身に着けて参加する秘密のバーみたいなものがあるらしい。

そこによく参加している女性は
「ここに来ると、会社や友達の間で演じている自分を全部忘れることができる。リラックスできるんです」
と、インタビューに答えたそうだ。

ソースが見当たらない不確かな情報だし、そのフランスからの情報は、「さもありなん」な話をでっち上げてるのかもしれないけれど…… でも、ありえそうな話だと思った。

日本人は武道にせよ何にせよ「型」を重んじる傾向が強いとよく言われる。働き方や生き方も「完璧な会社員像」「理想の三年目社員」「ライターとしてあるべき姿」「妻とはこういうもの」のような発想で、いつもいつも「型」を探していて、型に合わない部分を矯正しようと努めているのかもしれない。「型」があるおかげでうまくいっている部分もあるけれど、個人としては疲れるよねえ。

■「『型』は大事だけど、私たちはみんな変人だから、仕方ないよね」って思ってもいいんじゃない?

「個人として『型』に合わせることに疲れていること」って、その人の外側にも雰囲気として漏れ出してきていると思う。もう少し、自分の中の「変人」要素を大事にしてもいいのかもしれない。秘密のバーに行くまでもなく、「人はみんな変人なんだ」と少しだけマインドセットを変えるだけでいいのかもしれない。

というわけで、頑固な人、変わっている人、へんくつな人、愛想のない人がけっこう好きです。相手の変なところが見えると安心する。あえて愛想悪く接してくれる必要はないけれど、さ。

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