わがままシゲ子、という生き方

 2011年4月、今から丸三年前、祖母シゲ子が亡くなった。会社を辞めて、これからは祖母のお見舞いにも頻繁に行けると思った矢先のことだった。毎年のお盆、暮れ、正月は祖父母とすごしてきた。だから祖母との思い出はたくさんある。それなのに、知らせを聞いたとき、なぜかちっとも涙が出てこなかった。涙が出てこないのが不思議だった。

矢車草。祖父母の家に毎年咲いていた

矢車草。祖父母の家に毎年咲いていた


 祖母、シゲ子という人は、テニスをしたり、あちこちに旅行に行ったりするようなハイカラな家に末っ子として生まれ、わがまま放題に育ったお姫様のような人だった。病気がちで、毎年「今年が祖母と一緒に迎える最後の年かも」と言いながら、祖父母の家でお正月を迎えた。近年は、体の調子が悪かったからか、家族は祖母の言葉に、ずいぶん振り回された。「寿司が食べたい」というので買っていくと、もう食べたくなくなっていた祖母は「何で寿司があるの。目障りだよ」などと言うのだから。

 涙が出ないのは、覚悟ができていたからかな。それとも、わがままに振り回されてきたからかな。最初はそう思った。でもちがった。涙が出なかったのは、私が大切なことを見落としていたのと、祖母の生き方に潔さがあったからだった。

 納棺から葬儀の間、私は祖母の人生について考えていた。病気がちだったけれど、祖母は旅行にもよく行ったし、60歳をすぎてから社交ダンスを始めたり、書道の先生になったりするバイタリティがあった。入院をすれば、騒いで家族を招集し、家族は可能な限りお見舞いに行った。そう考えると祖母の人生は、けっこう充実していたようだ……。そうやって祖母の人生を考えていて、私は「あっ」と声を出しそうになった。祖母が、単なるわがままな人ではなかったのだと気づいたのだ。

 私は自分の希望よりも人の希望を優先してしまうきらいがある。でも、そうやって人の希望を優先しておいて何か問題が起こったときに、「私は本当はこっちがやりたかったのに!」と、文句を言ってしまうこともよくある。自分もそちらを選んだのに、責任をとらずに逃げてしまうのだ。

 自分の意見を通すのは、けっこうパワーがいる。自分の意見を通すのは、嫌われたって構わないと覚悟することもときには必要だ。私のような人に責任を押し付けられる可能性もある。そういったことへの覚悟とパワーを私はずっと持たずにいて、そのくせ自分のやりたいことができなかったことに文句を言っていた。

 ずっとそうしてきたから、会社を辞めるという大きな決断をするとき、他の人にかける迷惑を考えて、とても胃が痛かった。しかし最終的には、私の人生に会社を辞めることが必要だとわかったから、決意した。「誰に嫌われても仕方がない」と覚悟したのだ。相当な覚悟とパワーが必要だった。祖母は、こういったパワーや覚悟を常に持っていたのだろう。

 「誰に嫌われても、私はこっちがいい」という潔い決断を常にしていた祖母は、周りを振り回したけれど、最期にみんなを後悔させなかった。「もっとこうしてあげたかった」というグジグジした気持ちを持たずに、爽やかな思いで、旅立ちを見送ることができた。本当にすごいことだ。奇跡みたいだ。

 祖父が、許嫁ではなく祖母を選んで恋愛結婚をしたこと。戦時もどんなときにも、祖父は祖母を守り、愛し続けたこと。父や伯母、叔父たちが常に祖母を女神のように大切にしてきたこと。優しい友達に囲まれていたこと。それは、祖母の、「自分に正直で、自分のやりたいことを粘り強く貫く力」という、強烈な光みたいなものがたまらなく魅力的だったからではないだろうか。そういった祖母のキラキラしたところが、年をとって研ぎ澄まされ熟成されたのに、私がその姿をちゃんと見て学ばないうちに、亡くなってしまったのだ。それに気づいたら、悲しくて、でもありがたくて、涙がどんどんあふれてきた。

 葬儀で祖母と「最後のお別れ」をするときに、多くの人が
「私も頑張るね」
と、棺の中の祖母に声をかけた。私も、祖母の手に触れながら、
「私も、おばあちゃんのように自分の人生を、自分の責任で全うできるように、やってみるよ」
と伝えた。それは、祖母と私の約束だ。
 これからも私は、いくつも大きな決断をするだろう。そのときは、祖母シゲ子の生き方、祖母との最後の約束を思い出しながら決めようと思う。

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